なんのために音楽を聴くのか。なんのために文学を読むのか。

 今日は久しぶりに予定が何もなかった。遅めに起きてきて、メールとニュースを見てからぐだぐだやって、昼過ぎにiPodでFooFightersを聴いてた。そしてコタツに入ってぼんやりしながら、よくある会話のワンフレーズを頭のなかでぐるぐるさせてた。「どんなジャンル聴くの?」ってやつ。んで、俺はいつも何を聴いているんだろうと考えたとき、一般的にポストとかテクノとか括られるものが好きなんだろうなと考えた。でもまぁ好きなだけで、聴くってだけなら何でも聴いてる。何でもは言い過ぎにしても、同年代と比べると食指を伸ばすハードルが低い。おそらく。
 ジャンルというグループ分けは前提にするものではなくて、あくまでツールでしかない。パンクを作ろうと思って曲を作るやつなんてまずいないからだ。曲を作りたい。その曲では何々がしたい。そのためにこういう音を選んで、こう重ねて、こう展開する。そうやって出来上がった曲が、たまたまある観点からの共通項で括られているだけだ。だから厳密な意味で見ていくとジャンルなんて存在しない。でもまぁ便利だよねくらいの認識。ジャンル聴きとか、たまに良アルバム発掘したりできるしね。
 たとえばJ−POP。すげえ便利な括り方だと思う。日本の音楽は、ほとんどがこれで括られるんじゃないかな。一部でJ−ROCKって括り方を定着させようとしてるけど、まず無理そうな感じがする。認知としては、J−POPはコードを聴く音楽ってのが一般的。形式はA・B・サビの派生でしかないから、何を求めて聴くのかっていうと和音の耳障りが主因。でもJ−POPを聴いているメジャーな層を考えると、実際の一番のファクターは『特徴的な』声かもしれない。共感性の強い歌詞とファッションがそれに続く。ファッションってのは服装じゃなくて、プロデュース展開する際にされるキャラ付け。ルックスも大なり小なり含んでいる気がする。芸能化してる印象がするのは俺だけかな。
 転じてロックを聴くとき。これを聴く人間が何を求めて聴いているかというとノイズ音。ディストーションやワウなどを使ったエフェクタステーションの構築には、作曲と同じかそれ以上の労力がかけられる。そのために作り込まれてない安っぽい音は倦厭されやすい。歌詞は直情的でオマケみたいなもん。名詞の連呼やただの叫び声で成立しちゃうってのも、特筆していいことだと思う。たぶんヴォーカルの特殊性が薄くて、楽器の一つとしてみる傾向が強いのが原因。シャウトはノイズの構成要素になりうる。一概にロックといっても、大きい部分でパンク・メタル・ハード・ヘヴィ・ブルース・メロコアプログレ・ポスト・ガレージ・オルタナフュージョンなどで分けられる。さらにその下部でも枝葉のように分けられる。ジャンルごとにウケのいいファクターは異なるけれど、でもノイズが肝という前提は変わらない。
 そのようなノイズを好む人間とは対照的に、テクノクラスタは電子音を無条件に好む。俗にいう『テクノ耳』をもっている。音楽誌などでは、一般に『萌え』とよばれるものと似たものとして、よく比較して考察される。どちらも目的がその対象の観察で停止しているし、どちらの感覚も開発する必要がある。両方ともサブカル派生だし、嗜好対象を作る過程もどことなく似てる。オタク的って表現がここでは適切だ。
 話を戻す。ロックがノイズを快感とする音楽と同じように、テクノを好む人種は電子音を聴くこと、それ自体が快感になる。つまり『テクノ耳』をもつ人間にとっては、構成や和音は比較的どうでもいい構成要素なわけだ。まるで滅茶苦茶だとしても気にしないか、「そういう曲だ」と割り切って聴ける。大事なのはどう加工されていて、どれだけ耳に心地良いか。テクノクラスタは、最上級にシンプルな意味で「音を聴いている」。ただそれだけ。だからトランスみたいなジャンルが出来る。ほとんど変化のないリフが終始続く。曲の長さが10分なんてザラ。曲ごとの目的がそんなだから、わからない人間にはわからない。わかるためには耳を作っていくしかない。アシッドやアンビエントも同じ括り。ただダンスだけはちょっと違う。あれは目的じゃなくて手段の音楽。
 こんな感じで、音楽と括られているものを理性の領域に引っ張り出してみた。こう考えるとき、いつも思い出す言葉がある。「音楽なんてリズムと音階の組み合わせだろう」という高校時代の古文の教師のもの。名前は伏せる。つまり音楽なんて数列と確率論の産物でしかない、名作曲家は運の強い人間でしかない。そう言いたいわけだ。なんとまぁそういう認識ができるのかと驚いたのを覚えている。発想がまるでボルヘスの書いたバベルの図書館。音楽と文学は似ている。無機的な目線で見れば、たしかに記号と同義かもしれない。だけどまるで別物だ。記号の括り方・記号の意味の成し方・意味を切り取る単位・その他諸々。感性の領域で思いついた素材を、理性のフィルターを通過させたあと、再び感性の領域に戻して昇華させる。この一連のドラマに、俺は強い感動を覚える。ライヴか書籍か舞台か。この違いは、結果として生じるカタチの差異でしかないのだ。俺が本と音楽を好むのは、この素晴らしさが原因だ。
 さてあなたはどんな視点で、ソレを楽しんでいるのだろうか。