ナルシズムの定理

 大学で法学系の授業がある。当たり前だ、法学部なんだから。いろいろあった途中までを割愛するけれど、先生いわく、法は数学に似たものという。自然において起こった事象を言語数学を用いて説明する。それは合理的に辻褄が合えば正解として定理となる。法はどうか。社会で問題が起これば、罪刑法定主義において法的解釈と処理がなされる。言語は法だ。一貫した妥当性が確認されれば判例となる。つまり法学的思考とはそういうことなのだと。
 そのとき引例されたテーマがある。愛とはなにか。
 人は愛をもつ。誰かを愛し、あるいは愛されたいと願う。例外は存在せず、それは照準を緩め、人外を眺めてみても同じことが言えよう。では愛の定義とはなんなのか。その誰か(何か)を守りたいと思うことだ。さてその感情はどこからくるのか?
 現在、その答えとしてもっとも有力なものが遺伝子だ。人は男性のXY染色体と女性のXX染色体の組み合わせで性別が決定される。そのときの組み合わせは男性の染色体一対と女性の染色体一対の階乗である。この染色体群を順にA〜Dとおくと組み合わせは[AC][AD][BC][BD]なので、例外を除けば、必然的に子どもが親の遺伝子を継承している割合は50%固定のものだ。畢竟、人は自分の分身を愛しているのだ。
 一方でミツバチという生き物がいる。日本ではとても有名なハチだ。彼らは何百匹という一つのコロニーのなかで、たった一匹の女王バチのために働き、一生を捧げる。そこには女王バチと働きバチの2種類しか存在しない。しかし実は働きバチ自体を、もう2種類に分けることができる。雄と雌だ。生体構造だけに話を限定すれば、女王バチと雌の働きバチに差異はない。そう、自分がなりたければ女王バチになれるのだ。なのになぜ彼女たちは姉妹にそこまで尽くすのか。最近この問題に対する有力な答えが出てきた。遺伝子だ。
 雄の働きバチには染色体が一対しか存在しない。これをAとする。かたや雌の働きバチは二対の染色体をもつ。これをB・Cとする。組み合わせとしては[A][AB][AC]で、このとき染色体をAの一対しかもたないものは雄になり、二対もつものは雌になる。このとき子の雌の立場から見てみよう。


 緑色の枠で囲まれたACからみると、親との一致率の平均は50%だ。しかし姉妹との一致率をみると、同じ遺伝子の組み合わせがいるので、平均は50%よりも高い。この図の場合では75%になる。これがいま最も有力な説で、彼女たちが一生を尽くして姉妹に奉仕する理由たりうる遺伝子進化論だという。より自分に近い存在であり、より長く生きる可能性をもつものを保護する。これが愛の正体なのではないかということだ。
 この講義を聴いたとき、長年抱いていた疑問が氷解した。ナルシストはなにを愛しているのかという疑問だ。彼らは自分を愛するというが、それは自己自信の類なのか。しかしナルシズムが自己満足だとすればそれを開放することに違和感を感じる。充足はそこで完結し、いかなる発展をすることもないからだ。そうでなければ充足とは呼ばない。では裏返って自己を認めてもらいたいという感情の他者への促がしなのか。けれども一般的にはナルシズム的行為は促進を生まず、むしろ他の自己実現を図ったほうが近道であるほうが多い。疑問はぐるぐると渦巻く。これは解けないままかと思っていた。だが遺伝子が愛の在りかという考え方は、この疑問を一発で解消した。おそらくナルシストは多重人格者なのだ。
 鏡を見るとき人はそれを自己として認知する。そこに他者は存在しない。だがナルシストはそこに自己という他者を見る。これは客観視を意味しているのではなく、実際として愛する自己と愛されるべき自己がいるのだ。主観人格の乖離と自己愛のどちらが先なのかはわからない。けれど自己を「自己という他人」として眺めたとき、そこには一致率100%の他者が存在する。彼の魅力や悩みは全て理解できるし、自分のそれらも全て理解してもらえる。なにより許せるし許してくれるだろう。死ぬときですら彼らは一緒だ。もしかしたら愛を突き詰めていくとき、究極の形は自己愛へ至るのかもしれない。

マクドナルドの紙袋をブックカバーにしてみた。

 まぁタイトルのまんまです。

 本を買ったときにブックカバーをもらい損ねる。そうでなくても、一度読んだ本のブックカバーを捨てたあと、また読みたくなったときに着せるカバーがない、などなど。俺はそんなことが割とある。布製のブックカバーは持っているんだけど、二三冊の本を並行して読むタイプの人間なので、ブックカバー自体は頻繁に不足する。じゃあ買えよって話だけど、そこは貧乏学生の身の上話。本と音楽と飲み会にお金を回していたら、あとはもう貯金する分しか残らないのだ。
 そこで目に付いたのが、マクドナルドでテイクアウトの際にもらえる紙袋。冷静に見ると、なかなかシャレオツ。まぁ紙を切るだけなんで難しいことでもなし。チョキチョキってみました。


 ↑マクドナルドの紙袋。右は文庫本(中央公論新書サイズ:概算17×11cm)。


 ↑表と裏で微妙に異なるデザイン。

 ↑解体。キャベツとポテトの絵柄にした。ブタさんのケツが切れてるw
 「WE LOVE TO SHARE OUR PASSION !!」

 ↑裏側から適当にアタリを付ける。

 ↑途中は省略で笑

 思ったよりは、意外ときれいに収まりました。
 新書は単行本よりも高さがあるので難しいかなと思ったんですが、ぎりぎりジャスト・・・って感じ。切り落とす段階で幅は足りてなかったけど、まぁ元の型が余裕を持たせた作りになってるから、当たり前と言えば当たり前か。
 他の紙袋も試したいなぁ。モスや無印、ユニクロは紙袋あったかな?

「節電だ!」に隠された本当の理由は。

 世間では節電だ節電だと騒がれている。すこし付和雷同のような気がしなくもない。過剰な自粛は良い結果を招かないとマスコミが論調を締めた矢先に、これではどうにも腑に落ちにくい。「みんなが頑張っているときに!」といったような村意識の存在が、言葉と言葉の隙間からチラチラと顔をのぞかせている、そんな印象が拭えない。そういった発言というか風潮はあって当然だと思うけれど、それを組織が真に受けるのはどうだろうか。個々人レベルの節電と法人レベルでの節電では、その意義が大きく異なってくる。
 また個人に限定したとして、節電がどの見地から立っているのかでも、意味がだいぶ変わってくる。たとえば経済的見地からすれば、需要と供給の妥協値がギリギリであるほど健康的で望ましい。要求された量に応えることで健全な消費は促進される。あるいは道徳的見地からすれば「一人一人の意識」とでもいったところだろうか。ゴミ拾いの精神に近い。
 さて東京都では石原都知事の『自動販売機に関する発言:http://www.j-cast.com/2011/04/11092759.html』が問題になった(なっている?)。石原都知事といえば再当選が記憶に新しいが、公務の初っ端から発言が元気すぎるのではと思う。都知事選の快勝がよほど嬉しかったのかと思ったが、考えてみれば前からこの調子だった。とりあえず内容の審議はさておき、ここで気になったことが一つ。いったい、この発言を石原都知事はどの立場でしたのかということだ。
 都知事としての立場だろう。そうツッコミが入るのは必至なので補足すると、発言ではなく発想がという話だ。個人の心象から生じたものなのか、政治的包括的な論考からなのか、はたまたそれ以外の要因があったのか。気になって記事を見てみると、発言からは個人の心象が口を突いて出たように取れる(cf:「自動販売機なんてやめちまえ。コンビニで買って家で冷やせばいいじゃない」)。代替案の内容からでは、自身の生活習慣とは馴染みがないゆえに発した言葉というふうにしか取れない。自販機で買って冷蔵庫で冷やす。自販機のそうした使い方はマジョリティではない。自販機があるから買う。または、自販機がたまたまあったから買う。むしろそういったように購買欲を受動的に起こさせるものであって、買いたいから自販機を探すといったように購買欲が自発的なものであることは少ないだろう。株価が急落したメーカがあることも考えると、影響力を鑑みないポッとした一言は、公的な場では慎んでいただきたいものだ。
 しかし実際の話として、消費電力はどうなっているのか。
 電力会社が一般家庭の一日の平均消費電力としているのは9700Wで、一ヶ月に直すと9.7kW×30d=291kW。一方で、自動販売機の一時間の定格消費電力は600Whだから、一ヶ月に直すと0.6kW×24h×30d=432kw。つまり自販機一個で、家庭で消費する電力の1.5倍は消費しているのだー!
 ・・・・・・という結論だと、まだ早い。実はコカコーラなどの大手メーカは、15年ほどくらい前から、全ての自販機に節電対策を施している。真っ暗だった自販機にお金を投入すると、急に電気がついたりした記憶はないだろうか。非使用時は蛍光灯のみにしたり、保冷ではなく冷蔵に切り替えたりといった工夫で、実際上の消費電力を10%まで減らすことができる。さらにピーク時に機能する『節電モード』状態では、1時間あたりの消費電力を2.8%で、つまり17Wで稼動させることができる。節電という意味では、ほとんど問題にならないレベルと言えるのではないか。自動販売機による収入は、飲料業界の三割を占めるという。もしかしたら自販機の撤去は、マイナスの影響しか引き起こさないかもしれない。
 プロ野球の開幕に際しても一悶着あったが、どうにも考えを述べることの難しさを実感する。出発点が感情なのか意見なのか。冷静で論理的だと自分で思っているときほど、その判断は頼りにならないことが多い。これは年齢や頭の良し悪しなどを問わず、気付けるかどうかの違いでしかない。だからこそ難しいのかもしれないけれど、良い意味で疑うことを覚えたいものである。

英語で挨拶も出来なかった話。

 TankMasterという超ゲキレツマイナー過疎ネットゲームの話。

 ネットゲームっていっても「同時オンライン人数1万人!」とかそういうのじゃなくて、まぁ昼間は誰もいないよね。夕方で10人いるかなって感じ。真夜中のピーク時で40人いればおぉ!って感じのネットゲーム。ちなみに人が一番集まる週末の話です。平日に40人も集まるわけないだろwwwwwwっていうノリ。まぁもとが、アメリカの大学生がFlashスクリプトの練習用として作った個人サーバ運営のものだから、当たり前っちゃ当たり前だけど。
 で、そこで会話してると、たいていは雰囲気で乗り切れるんだけど、たまにスラングがひどかったり構文がネイティブすぎてわからないものがある。これが案外に勉強になったりする。今日はこれがさっぱりわからなかった。

revenge (US)> how you folks with low ms doing?
sirokuma (JP)> folks?
sirokuma (JP)> whats mean?
GP-8374> めし終了
revenge (US)> you guys
Bravo2 (JP)> volks wagen
sirokuma (JP)> i see
GP-8374> ぼろくろばーげん
revenge (US)> folks / volks / peeps
sirokuma (JP)> つまり
sirokuma (JP)> なんでそんなms低いのかと?
GP-2765> サーバーまいさいど
Kaki (JP)> Because we access server from japan
sirokuma (JP)> and the server is in japan
revenge (US)> yes, i know ... let me rephrase that question then
revenge (US)> how are you peeps in japan doing today ?

 この会話。
 このあと結構ぐだぐだやって、結局は「元気?」の一言だったとわかった。

revenge (US)> how you folks with low ms doing?

 要するにbe動詞を単純に省略して、folksを飾りでつけてたわけだ。あと後半のwith以下は、日本人を遠まわしに表現しただけだったと。TankMasterのサーバは日本にあるから、接続場所がサーバに近い日本人プレーヤーは必然的にms値が低くなるからね。

revenge (US)> how are you peeps in japan doing today ?

 言い換えた挙句、逆に混乱させた一言。
 ちょうど運営委員会がms差が原因のラグについてアンケートを採っていたから、流れでそれに関する質問かと思ってみんな余計に文意が取れなくなってた。こっちもpeepsは修飾語。

 how are you in japan? って文でした。

評判凄まじい『英国王のスピーチ』を観てきたけど。

 素晴らしい映画だった。随所に現れるイギリスらしさ。そのどれもが印象的で、またそのどれもがこの映画の特徴たらしめている。英国式の皮肉で全力投球。ユーモアたっぷりの喜劇だった。
 舞台は1930年代のイギリス。当時、東ではヒトラー率いるナチ党が第一党として政権を握り、ドイツがファシズム国家として確立。北ではレーニンの死後に実権を握ったスターリンが、内部で大粛清の兆候を見せながら、同時に外部では共産圏の拡大も着実に始めていた。現代を生きる者からすれば、当時の政治事情はまるで映画の脚本を観ているようである。それほどまでに1930年代の時代背景は、鬱々として重く、鈍色のように薄暗い。これを題材として作られる映画は悲劇になりがちだ。ほかの料理の仕方が思いつかない。
 だが、この『King’s speech』はやってしまった。ありがちな戦争映画にヨレることもなく、コメディ色で溢れんばかりの喜劇に仕立て上げてしまったのだ。下手をすればタブー視されるようなネタへ好んで挑みかかり、見事、身体から生える指を全て使っても数え切れないような数の賞をさらっていった。しかし賞賛された勇姿の理由は、それだけではないのだ。俺が個人的に思う最大の功績。それは実在した英国王ジョージ6世を、喜劇の主人公として用いたことだ。彼は吃音症だったのだ。
 俺は障害者を、まるで腫れ物のように扱う風潮が嫌いだ。たぶん小学生のころに、親に買ってもらった芸人・ホーキング青山さんの自伝を読んだことが原因だろうと思う。「笑え!五体不満足」。俺の障害者に対する認識は、あの短所を短所のままに笑い飛ばす陽気な障害者で培われている。そして実際にも、そうであるべきだと思う。あくまで日常線の延長なのだから、下手に美化する必要はない。過度な自重と配慮は、不自然かつ滑稽。そう、滑稽なのだ。滑稽こそ喜劇における最高の素材たりうるのに、たいていはタブー扱い。おかしな話だ。特に日本ではそんな風潮が強いものだから、障害者と皇族と喜劇の組み合わせなんて、思いついても慌てて掻き消さなければいけない。英国バンザイ。
 劇中では、他にも英国映画らしいなと思うところが多々ある。「Yes TITS!」だの「FUCK!!」だのを、英国王を演じる役者に連呼させるなんて素敵じゃないか。しかもこれは開幕から終劇まで続く。「殿下は適度に罵ったほうが、発音が流暢ですな」これは開き直りではなくブッ飛んでるという表現が、もはや適切かもわからない。不敬罪?なにそれ食べられるの?ちなみに付け加えると、食事のシーンで出てくるオートミールはちゃんと最高に不味そうだから、その点は安心してほしい。
 あと面白いと思ったのは、英語だ。最近はアメリカ映画ばかり観ていた俺にとって、イギリス式の英語が耳に新鮮だったのだが、この映画にはそのどちらも出てくる。そしてオーストラリア式の発音も出てくる。あるシーンで上記三種類の発音者の会話になるのだが、聞いているとなかなか不思議。考えてみると、日常でも映画でもあまり見かけないパターンだ。
 最後に一つだけ。もし観てみようかなと思ったなら、なるべく小さい映画館で見てほしい。大きい映画館でもいいけれど、それはたぶんもったいない。なぜかといえば、この作品が喜劇だからだ。ぜひともアットホームな空間で、観客みんなで笑いながら観たほうが面白い。俺が観に行ったのはBunkamuraの第一ホールで、収容人数150名と中サイズの劇場。その丁度イイ狭さと作品とが生む雰囲気は、自然と声に出して笑いだせる居心地のいいものだった。後味もさっぱりしている。気になる誰かさんと行っても、外れではないはず。

なんのために音楽を聴くのか。なんのために文学を読むのか。

 今日は久しぶりに予定が何もなかった。遅めに起きてきて、メールとニュースを見てからぐだぐだやって、昼過ぎにiPodでFooFightersを聴いてた。そしてコタツに入ってぼんやりしながら、よくある会話のワンフレーズを頭のなかでぐるぐるさせてた。「どんなジャンル聴くの?」ってやつ。んで、俺はいつも何を聴いているんだろうと考えたとき、一般的にポストとかテクノとか括られるものが好きなんだろうなと考えた。でもまぁ好きなだけで、聴くってだけなら何でも聴いてる。何でもは言い過ぎにしても、同年代と比べると食指を伸ばすハードルが低い。おそらく。
 ジャンルというグループ分けは前提にするものではなくて、あくまでツールでしかない。パンクを作ろうと思って曲を作るやつなんてまずいないからだ。曲を作りたい。その曲では何々がしたい。そのためにこういう音を選んで、こう重ねて、こう展開する。そうやって出来上がった曲が、たまたまある観点からの共通項で括られているだけだ。だから厳密な意味で見ていくとジャンルなんて存在しない。でもまぁ便利だよねくらいの認識。ジャンル聴きとか、たまに良アルバム発掘したりできるしね。
 たとえばJ−POP。すげえ便利な括り方だと思う。日本の音楽は、ほとんどがこれで括られるんじゃないかな。一部でJ−ROCKって括り方を定着させようとしてるけど、まず無理そうな感じがする。認知としては、J−POPはコードを聴く音楽ってのが一般的。形式はA・B・サビの派生でしかないから、何を求めて聴くのかっていうと和音の耳障りが主因。でもJ−POPを聴いているメジャーな層を考えると、実際の一番のファクターは『特徴的な』声かもしれない。共感性の強い歌詞とファッションがそれに続く。ファッションってのは服装じゃなくて、プロデュース展開する際にされるキャラ付け。ルックスも大なり小なり含んでいる気がする。芸能化してる印象がするのは俺だけかな。
 転じてロックを聴くとき。これを聴く人間が何を求めて聴いているかというとノイズ音。ディストーションやワウなどを使ったエフェクタステーションの構築には、作曲と同じかそれ以上の労力がかけられる。そのために作り込まれてない安っぽい音は倦厭されやすい。歌詞は直情的でオマケみたいなもん。名詞の連呼やただの叫び声で成立しちゃうってのも、特筆していいことだと思う。たぶんヴォーカルの特殊性が薄くて、楽器の一つとしてみる傾向が強いのが原因。シャウトはノイズの構成要素になりうる。一概にロックといっても、大きい部分でパンク・メタル・ハード・ヘヴィ・ブルース・メロコアプログレ・ポスト・ガレージ・オルタナフュージョンなどで分けられる。さらにその下部でも枝葉のように分けられる。ジャンルごとにウケのいいファクターは異なるけれど、でもノイズが肝という前提は変わらない。
 そのようなノイズを好む人間とは対照的に、テクノクラスタは電子音を無条件に好む。俗にいう『テクノ耳』をもっている。音楽誌などでは、一般に『萌え』とよばれるものと似たものとして、よく比較して考察される。どちらも目的がその対象の観察で停止しているし、どちらの感覚も開発する必要がある。両方ともサブカル派生だし、嗜好対象を作る過程もどことなく似てる。オタク的って表現がここでは適切だ。
 話を戻す。ロックがノイズを快感とする音楽と同じように、テクノを好む人種は電子音を聴くこと、それ自体が快感になる。つまり『テクノ耳』をもつ人間にとっては、構成や和音は比較的どうでもいい構成要素なわけだ。まるで滅茶苦茶だとしても気にしないか、「そういう曲だ」と割り切って聴ける。大事なのはどう加工されていて、どれだけ耳に心地良いか。テクノクラスタは、最上級にシンプルな意味で「音を聴いている」。ただそれだけ。だからトランスみたいなジャンルが出来る。ほとんど変化のないリフが終始続く。曲の長さが10分なんてザラ。曲ごとの目的がそんなだから、わからない人間にはわからない。わかるためには耳を作っていくしかない。アシッドやアンビエントも同じ括り。ただダンスだけはちょっと違う。あれは目的じゃなくて手段の音楽。
 こんな感じで、音楽と括られているものを理性の領域に引っ張り出してみた。こう考えるとき、いつも思い出す言葉がある。「音楽なんてリズムと音階の組み合わせだろう」という高校時代の古文の教師のもの。名前は伏せる。つまり音楽なんて数列と確率論の産物でしかない、名作曲家は運の強い人間でしかない。そう言いたいわけだ。なんとまぁそういう認識ができるのかと驚いたのを覚えている。発想がまるでボルヘスの書いたバベルの図書館。音楽と文学は似ている。無機的な目線で見れば、たしかに記号と同義かもしれない。だけどまるで別物だ。記号の括り方・記号の意味の成し方・意味を切り取る単位・その他諸々。感性の領域で思いついた素材を、理性のフィルターを通過させたあと、再び感性の領域に戻して昇華させる。この一連のドラマに、俺は強い感動を覚える。ライヴか書籍か舞台か。この違いは、結果として生じるカタチの差異でしかないのだ。俺が本と音楽を好むのは、この素晴らしさが原因だ。
 さてあなたはどんな視点で、ソレを楽しんでいるのだろうか。

人を動かす / D・カーネギー

人を動かす 新装版 おそらく自己啓発と呼ばれる類のものとしては、とりわけ黎明の時期に書かれたものだろう。幾度か改訂はされているものの、出版から五十年以上を経た現在でも、良書として版を重ねている。改訂とは言っても、引用する事例を更新しているくらいのものなので、概脈に大した影響はない。今でも年度の更新期には、新成人へ向けた愛蔵すべき“最高の”書物として平積みにされていたりする。つまりはそれが俺がこの本を手に取った理由ということでもあるし、ズバリ新宿三省堂の書店員の営業術にうまいことハメられたということでもある。最近は電子書籍やらAmazonやらの隆盛で、実店舗を持つ書店は衰退するだろうといったネガ論も聞くけれど、この調子なら活字文化も安泰だろうぜとポジティブ思考に切り替えてみる。決して負け惜しみではない。
 さて肝心の内容だけれど、俺はすこし期待しすぎていたのかもしれない。内容量としては賞味10ページもあれば事足りるのではないか、印象としてはそんなところが大きい。346ページに渡って続く啓発的な文章は、たしかに絶対的に万人の為になる内容だ。だが同時に、それは正と負、どちらの要因にもなっている。すこし目次を引用してみる。

Part1:人を動かす三原則
 1、盗人にも五分の理を認める
 2、重要感を持たせる
 3、人の立場に身をおく
Part2:人に好かれる六原則
 1、誠実な関心を寄せる
 2、笑顔を忘れない
 3、名前を覚える
 4、聞き手に回る
 5、関心のありかを見ぬく
 6、心からほめる
Part3:人を説得する・・・・・・・・・

 基本あるいは原点・原則は、どれほど環境が変わろうとも重要であり続ける。それは全ての前提であり約束事であるからだし、全ての物事に共通するからだ。シンプルイズザベスト。基礎を疎かにして応用はこなせない。土台が不安定なまま塔を建てれば崩れてしまう。読み進めていくうちに、この本が半世紀も重版され続けている理由がわかった。そういうことなのだ。重要なことに変わりはない。
 文章的な構成としては、情報商材のそれと非常に近い。まず最初に抽象的で包括的なフレーズを前置いたあと、連綿と具体的な例を挙げていく。当然、引用した例は章訓が実践されたものではあるが、またその全ての例で当然のように成功している。あまりにも不自然だ。失敗の例は一つも挙げていない。違和感を感じつつも読んでいると、まるで魔法の原則かのように思えてくる。不思議なものだ。延々とサクセスストーリーが続けば暗示もされてこよう。しかしあくまで断言する。有用でないわけではない。どれも貴重な人生訓だ。しかし箇条書きのペラ一枚で事足りる。
 あなたは傘をよく失くしたりする人だろうか。もしそうであれば、高価な傘を買うことをオススメしたい。置き忘れたりすることなどパタリとなくなる。個人的な話になるけれど、俺は1500円で買ったこの本の目次をちぎって、机の前のコルクボードに貼ることにした。すこしは置き忘れが減ることを期待したい。