The Right Of Opinion

jacquesmattheij.com : How to damage your brand in one smooth shot - Way to GoDaddy
http://jacquesmattheij.com/How+to+damage+your+brand+in+one+smooth+shot+Way+to+GoDaddy


 "My vacation video..." The movie just started with this phrase, as soon as displayed the page, is far from my expectation. The scene that an elephant is shot is awful shocking of course, but the another one is much more for me. That is the villagers take the elephant apart to meals, with smiles.
 This article say people on the Internet angrily blamed him. And I can view such opinions, confirming their comments in the video page. But I don't know whether they are majority or minority because people watching the video don't always leave their impressions. For example, the writer of this column suppose his opinion on his site. In reality, I just dwelt on on my blog, not the comment field. Moreover I can say some will not write their impressions anywhere.
 And we must not forget these all opinions are things on the Internet. People who can use Internet is certainly people who live in a civilized society. Almost all such people would not directly watch animals been killing. Of course, me too.
 I think hunting illegaly should not be forgived. But emotionally blame about unusual spectacles is the same as the above. We should not say anything unless experience really. I want to watch meat processing factory, although I have bit of scared.

ウェブをフル活用して英語を勉強する方法を探してみる。

 そろそろマジメに英語の勉強方法を考えてみようと思う。ここでいうマジメというのは、習慣的にという意味で。たいがい今までの勉強方法は、思い立ったら、英語使って何かしようみたいな感じだった。例えば、
  ・米版Wikipediaをリンクたどって読み漁る
  ・Youtubeフルハウス見て笑う
  ・TankMasterのチャットで外人に絡む
 思い出せば他にもあるかもしれないけど、まぁパッと思いつく限りだとこんなところ。モノの見事に毎回することがバラバラだし、質と量とどちらも安定してない。一応やることはやってるんだろうけど、なんというかこう、やる気的なナニかが感じられない。それ以上にもっと安定して、数値化できるような勉強の仕方がしたいな、と。要するに面倒臭がりだからノルマを作りたい。

 言語学習、とりわけ母国語じゃなくて新しい言語を学んでいく際に大事なのは、ザックリ分けて発信と受信をバランスよく行うこと。発信は「話す・書く」、受信は「聞く・読む」。個人的には話すと聞く・書くと読むを、それぞれ同時に出来ると楽でいいなって思う。効率もよさそう。ただ前者は会話って手段でそれができるけど、後者は無理っぽいよな。今まで通りTMでチャットするか・・・?いやでもスラング半端ないし、あとたぶん俺が勉強したい読み書きってそっちじゃない。
 そんなことを考えながらGoogleで検索にかけて色々見て回った。これだけ情報が溢れてる時代なら、なるべくお金を払わずにできることなんていくらでもある。もちろん一定のレベルを超えたものは、やっぱりちゃんとお金を払わないと手に入らない。だけど英語を勉強するくらいだったら、絶対にそういうサービスを受けないと上達しないってわけじゃない。というわけで、
  1、読む
    NewYorkTimesなりWashingtonPostなりの記事を、最低でも一日一記事は読む。
    ニュースが嫌な日は、左にリンクも張ってある「HackerNews」から興味が湧いたのを読む。
    このとき辞書を引いた単語はどこかにメモしておく。メモ帳か何か作るべきかも。
  2、話す・聞く
    まだ固まってないけど、今のところは「レアジョブ」ってサイトが良さそう。
    なにがイイって安いよね。あと安いし。それに安いから。
    加えて相手も「某サイト」みたいにランダムじゃないってのが素敵。一回ひどい目にあった。
  3、書く
    このブログに英文で日記を書こうかなと。英記事を読んだ感想でも意見でもいいし。
    ただ日記にするほどまとまった量を書いたことがないから、まだどれくらい労力掛かるのかわからない。
    ので保留。週一くらい?
  4、その他
    あとチラチラ気になってるのが「iKnow!」ってサイト。
    なんだか良さげ。言うなればインスピレーション。略してレーション。
    なにがイイって安いよね。あと安いし。それに安いから。
 というわけで、ぼちぼちやっていこう。
 計画倒れにならないよう祈る。祈るじゃねえやるの俺だ。

本当の意味で災害を生き延びるとは。

福島の原発IAEA基準の災害指定でレベル5に認定されたという。これはスリーマイル島沖で起きた事故と同じ規模のものと聞くけど、どうにもパッとしたイメージが湧かない。今まで教科書の中の出来事だったものが、急に現実味を帯びて、生活の背景として存在する感覚。にわかに歴史が鮮やかな色を帯びて俺の目に映り始める。知識が具体的な形を成して、経験に変わろうとしているのか。食事をしているときや本を読んでるときでも、その観念がついて回るのはどうにも不思議なものだ。これから慣れていくしかないのだろう。
現在も続く混乱の中で、飛び交う言葉は様々にある。定型的なフレーズと化して、半ば皮肉られ、ネタ化してしまったものも多い。災害時に下手な広告は流せないという自重なのか配慮なのかわからない判断で、テレビのCMは軒並みが公共広告機構(AC)ばかりになったが、今、一番話題性があるのはそのCMだろう。「ぽぽぽぽーん」や「おはようなぎ」というような平時でさえ耳に残りそうなユルいアオリが、災害時の今、うんざりするほど繰り返されている。ネタとして笑い飛ばさなければ、その文句で洗脳されてしまいそうだ。
そのようにネタ化された定型フレーズの一つに「不謹慎」という言葉がある。発祥はtwitterのようで、わずかでも楽しげな発言をすれば、すぐにでも不謹慎だとたしなめられる。東北の被災者を考えれば、全ての活動を自粛しなければいけないらしい。どうにも強迫観念めいているが、ちらほら手段が目的化している人間も目に付き始めて、あまり良い気分はしない。現在では、安全圏から正論を語りたい人間と野次馬とで、その使用が占められている。この言葉が一切の通常機能を失ってしまったようだ。
だが実際の話として、不謹慎な行動は良いことなのだろうか。どうにも漠然とした物言いになってしまったが、不謹慎と諌められる対象があまりにも広くなりすぎて、照準を絞りきれないのは確かだ。ならば逆に考える。どんな行動が奨励されるべきなのか。節電、募金、献血、激励。他にいくつも挙げられるのだろうが、それら全てを実行するのは難しく、意識を念頭に置くだけでもなかなかできるものでもない。日本人である以上、今回の災害からは大なり小なりの被害を確実に受けていて、被災者の一部であるからだ。普段の日常にさえ溺れそうな俺たちが、自分の周りの問題に割ける余裕は多くはない。
おそらく大事なのは心がけ。特に、これが異常な状況だと正確に認識する心がけが一番大事だ。状況が変われば、意識も変えなければいけないのは当然だからだ。たとえば情報一つを取ってみてもそう。いくつの事実が読み取れるか。その事実は正確なのか。ソースはあるのか。そのソース自体は信頼できる出典なのか。出典で省かれている事実はないのか。などなど。なぜ節電をしているのか、その理由すら自覚していない人間もいると聞く。東北に電力を供給するなどとアサッテな解釈を発したその口で不謹慎と叫ぶのは、滑稽ですらなく迷惑でしかない。
もちろん、これらは平時でも意識されなければいけないものだ。だが今は平時ではない。より一層の必要性が迫られる。平時ではないとき、大衆のパニックを防いだり、一部の人間の保身や立場を守るために、情報は意図的に減らされたり隠されたりする場合がある。正確な把握が最善の行動のみに繋がるわけではないが、最適な行動が正確な把握以外から引き起こされることはない。
普段から意識していなくてもいい。ただ献血や募金のノボリをみたら、「やっていこうかな」と、少ない余裕を回せる先がそこであるよう、認識自体を変えることが大事。義援活動が自己正当化の免罪符になったりするのは本末転倒だ。
土木事業やインフラ整備のために働くだろう企業の報酬は、外貨ではなく円。復興活動のために、外資本が売られ円が買われている今はまだ、円の人気は高いままだ。しかし恐ろしいのは、このさき復興が一段落したころだろう。今回の一件でFukushimaの知名度は世界的なレベルへ跳ね上がった。いくら内需の強い日本といっても、輸出や観光業へのダメージを無視できるとは思えない。そのとき円の価値は、日本の信頼度はどうなってしまうのか。浅学の身で予測は出来ないが、あまり良いものではないだろうという推測はできる。そのときこそ、普段以上に普段の生活を心がけて、消費活動ができるかどうか。それが求められると思うのだ。

ニワカ原発博士はもういらない

3月11日の午後に起こった東北関東大震災で、いつもどおりの生活が一変した。15日の午後くらいから、ようやくテレビでバラエティ番組も流されるようになってきたけれど、計画停電はまだ続いてる。電車も通常運行じゃないし、原発が爆発するかもしれない恐怖はまだ続いてる。
ところで今回の地震twitterがものすごい活躍したらしい。ただ同時に、無責任な【拡散希望】とか、どこそこで食料がたりません!とか、(有名アカウント)さんだれだれの安否をお願いしますとか、しょうもないRTが大量に流れもした。なんというか情報氾濫に近くて、ソース元が明確で正確な情報が埋もれちゃってる印象が強かった。
驚いたのが、時間を追えば追うごとに、有用で正確なツイートが増えるようになっていったこと。自浄作用という言葉が適切かわからないけど、少なくとも自分個人のタイムライン上ではそうだった。twitterアカウントのアクティブ数を考えると、自然な流れでこうなったのは本当にすごいことだと思う。

だけどこれだけ情報インフラがしっかりしてて、メディア関係の機材が被災地で稼動できてるなら、現地でtwitterなり何なりを活用してもいいんじゃないかと思う。特に被害の大きかった地域名でアカウントを作って、関連アカウントでリストを設ければ、正確なことこの上ないし、情報交換だって最高に円滑になる。活用できるものは全部活用するべきだと思う。
あとそれは東電にも言える。あれだけ渦中にいる組織の情報発信できる媒介がテレビだけってのは無責任にも程がある。頑張ってるのはわかるし本当にありがたいけど、それは当たり前だし、頑張ってれば方法を問わず評価されるってわけでもない。

情報がどうのこうのでもう一つ思ったのが、同じ情報でも伝えて欲しいのはそれじゃないかな・・・ってのが多かった。特にそれを強く思ったのが原発に関してだった。福島の原子力発電所が報道されるときは、たいてい「○○シーベルトが放射されています」あるいは、「○○の部位が爆発しました」という形で報道される。ひどいのになると「内圧が○○パスカルまで低下しました」なんてものになる。
実際の話、こんな生の情報を聞かされてもチンプンカンプン。こんなときですら加工されてない情報を欲しがってる一般人なんて、博識ぶりたい一部の構ってちゃんくらいしかいない。本当に欲しいのは、専門家が判断した「危ないのか、危なくないのか」それだけ。簡潔でわかりやすいものでないと余計に混乱するだけなんだ。
もちろん生の情報だけじゃ意味がないことをメディアもわかってるので、一緒に比較情報をパネルにしたり、原発の構造を図解で説明したりしてた。でも惜しい。ちがう。そこじゃないんだと。大学の講義レベルの解説なんかしても、ニワカ知識をもった一般人が増えるだけ。(自分自身を含めて)そんな人間の判断なんて当てにならない。専門家が専門的な知識と考えでもって辿り着いた結論が一番欲しい情報であるのは間違いない。

シーベルトに関しては、分単位なのか時単位なのかすら併記してないところもあって、これはひどいと思った。あと枝野官房長官の発表の一つ、「健康に被害がある可能性があると断言できるレベル」って表現。つまり「不健康かもしれないって断言できるよ」ってことで、発表の性格上、仕方ないとは思うけど、だったら発表する必要も薄いんじゃないのか・・・。

なんにしろ今回のことで、情報は正確性とその伝える形が大事だと思った。

××世代のカラクリ

どうにもレッテルやイメージという種類のものが苦手。苦手というか、毛嫌いしてる部分がある。「あそこの学生は〜」「この年代は〜」「あの国の人間は〜」みたいな。判断基準の一部としてならともかく、大前提に置いて使うものじゃない。特にそれが何かの統計もなく、ただの思い込みや、極端な例のイメージだけで出来上がっていたら目も当てられない。出発点を間違えてしまう。

その中でも代表的なものが××世代。周期的に確立されるもののようで、団塊の世代やバブル世代、しらけ世代といったようにたくさんある。らしい。かくいう自分もゆとり世代だなんて呼ばれる。らしい。ゆとり教育の弊害だなんだと聞くけど、まず弊害自体がなんなのかも人によって異動があって明確じゃない。

定義としては、特徴的な時代を青年期に過ごした人間がそう呼ばれる。たとえばバブル世代なら、経済バブル期に青年期を過ごせばバブル世代だというように。

ゆとり世代の)特徴
堅実で安定志向で地味だという傾向にあり、内閣府の調査によると専業主婦願望が強いという結果が出ている。
また、第一生命経済研究所によると、ゆとり世代は親のバブル世代の消費の失敗を見て育ち、エコやリサイクルや環境問題を教育で学んだため、流行に左右されず、無駄がなく自分にここちいいもの、プライドよりも実質性のあるものを選ぶという消費スタイルをもっていると書かれている。(Wikipediaより引用

これを見てふと、物言いが星座占いや血液診断に似ていると思った。全体的な傾向、あるいは人間なら誰しもが多かれ少なかれもっているような特徴をかいつまんだ感じ。当てはまる人もいれば、当てはまらない人もいる。そりゃそうだろというツッコミが入るかもしれないけど、だからたぶんこれは正しい。そしてこれは特定の世代に限定されるものではない。どの世代にもこんな人間がいる一方で、特定の世代がこんな人間だらけというわけでもない。

××世代と呼ばれたモノの特徴が、その時代に生きる人間のだいたい全般に当てはまる気がするのは、気のせいなのだろうか。その時代の生き方の傾向といったほうがいいかもしれない。考えてみれば当たり前の話で、異常な好景気は異常な消費を促進させるし、ネットの普及は検索ありきの効率的な消費が促進される。

たぶん、時代を反映した生き方が、まだ何のレッテルも貼られていないノーブランドの若者に特徴として割り当てられるだけなんだと思う。そこに、たまたまあった象徴的な出来事を名前として冠す。そこに流行りもの好きのメディアが食いつく。そしてテレビがその内の極端な例を、さも代表例かのように扱う。みんながそれを認知する。そんな仕組みだから××世代は必ず当てはまるように思えるんじゃないかな。

インターネット(40歳・自由業)さんの最近

どんな分野でも、活躍が若ければ若いほど凄いことだってのはわかる。どの時代でも重要なのは早さ。10歳と30歳が同レベルで精巧な静物画を描いたとしたら、評価されるのは確実に前者だ。ただ最近、その風潮に拍車が掛かりすぎてる気もする。そのパターンは2つ。

1つは、基準よりちょっと上程度の人を誇張して祭り上げるもの。たとえば「美人過ぎる〜」。もう1つは本当に技術を持ってる人を取り上げるんだけど、フィーチャーの仕方が熱を帯び過ぎているもの。たとえば某野球の人。などなど。どちらの例にもきりがない。

この風潮を良しとするかどうかは人それぞれだろうけど、個人的には見世物みたいで、あまり好きじゃない。心象的にも気持ちいいと思ったことはない。前者にしろ後者にしろ、単純な消費物に変換されてる感じがする。なんというか、使い捨てに近い。


じゃあなんで拍車が掛かっているのか。テレビ?ネット?他のメディア?乱暴にいえば、たぶん、それらひっくるめて全部。互いが互いの原因と結果。情報が増えすぎたせいで、鮮度の落ち方が異常になってる。どんどん入れ替えないといけない。

テレビは同じ演出パターンの使いまわし。それを打開しようとした人間が、深夜番組で演出なり脚本なりを冒険する。でもその番組が成功すると、ゴールデンに引っ張り出されてくる。そして今度はそれが常套手段化する。

ネットで今一番多いのはニュース系サイト。ちょっと前まではテクスト系サイトだった。まとめブログの小見出しなんかを眺めてみると、アクセス稼ぐぜ!って感じのエントリ名がずらり。ただどれも読後感は皆無。これは個人的な感想。

他のメディア、雑誌でもいいけどあえて新聞。あれは何がひどいかって日本語がひどい。情報の詰め込みすぎでわけわかんなくなってる。その上、情報の省き方もやっちゃいけない方向で一貫してる。言うとしたら、ただの読み物化・エンタメ化みたいな。読まなきゃいけないものじゃなくなってる。


これほど情報の入手手段が多肢化してくると、共通の話題をもつことが難しくなってくる。違う集団で主要トピックが異なるならまだしも、相互の主要トピック自体をまったく知らないという状況すら起きる。

各分野で騒がれたゼロ年代も過ぎて一段落したし、ウェブ2.0なんて言葉も聞かなくなってだいぶ経つ。でも個人的には、今こそ2.0形態(情報発信の個人化)が重視されるべきだと思う。それはニュースを発信できるという意味ではなくて、自分がどういう存在か・自分がどういうトピックに関心を持っているかという主張の意味で。そうすることで集団同士あるいは集団内部自体も、やりとりがスムーズになって匿名の凶暴性も薄れていく。facebook実名主義が当然視されてきている原因はこんなところじゃないかなと思う。