本当の意味で災害を生き延びるとは。

福島の原発IAEA基準の災害指定でレベル5に認定されたという。これはスリーマイル島沖で起きた事故と同じ規模のものと聞くけど、どうにもパッとしたイメージが湧かない。今まで教科書の中の出来事だったものが、急に現実味を帯びて、生活の背景として存在する感覚。にわかに歴史が鮮やかな色を帯びて俺の目に映り始める。知識が具体的な形を成して、経験に変わろうとしているのか。食事をしているときや本を読んでるときでも、その観念がついて回るのはどうにも不思議なものだ。これから慣れていくしかないのだろう。
現在も続く混乱の中で、飛び交う言葉は様々にある。定型的なフレーズと化して、半ば皮肉られ、ネタ化してしまったものも多い。災害時に下手な広告は流せないという自重なのか配慮なのかわからない判断で、テレビのCMは軒並みが公共広告機構(AC)ばかりになったが、今、一番話題性があるのはそのCMだろう。「ぽぽぽぽーん」や「おはようなぎ」というような平時でさえ耳に残りそうなユルいアオリが、災害時の今、うんざりするほど繰り返されている。ネタとして笑い飛ばさなければ、その文句で洗脳されてしまいそうだ。
そのようにネタ化された定型フレーズの一つに「不謹慎」という言葉がある。発祥はtwitterのようで、わずかでも楽しげな発言をすれば、すぐにでも不謹慎だとたしなめられる。東北の被災者を考えれば、全ての活動を自粛しなければいけないらしい。どうにも強迫観念めいているが、ちらほら手段が目的化している人間も目に付き始めて、あまり良い気分はしない。現在では、安全圏から正論を語りたい人間と野次馬とで、その使用が占められている。この言葉が一切の通常機能を失ってしまったようだ。
だが実際の話として、不謹慎な行動は良いことなのだろうか。どうにも漠然とした物言いになってしまったが、不謹慎と諌められる対象があまりにも広くなりすぎて、照準を絞りきれないのは確かだ。ならば逆に考える。どんな行動が奨励されるべきなのか。節電、募金、献血、激励。他にいくつも挙げられるのだろうが、それら全てを実行するのは難しく、意識を念頭に置くだけでもなかなかできるものでもない。日本人である以上、今回の災害からは大なり小なりの被害を確実に受けていて、被災者の一部であるからだ。普段の日常にさえ溺れそうな俺たちが、自分の周りの問題に割ける余裕は多くはない。
おそらく大事なのは心がけ。特に、これが異常な状況だと正確に認識する心がけが一番大事だ。状況が変われば、意識も変えなければいけないのは当然だからだ。たとえば情報一つを取ってみてもそう。いくつの事実が読み取れるか。その事実は正確なのか。ソースはあるのか。そのソース自体は信頼できる出典なのか。出典で省かれている事実はないのか。などなど。なぜ節電をしているのか、その理由すら自覚していない人間もいると聞く。東北に電力を供給するなどとアサッテな解釈を発したその口で不謹慎と叫ぶのは、滑稽ですらなく迷惑でしかない。
もちろん、これらは平時でも意識されなければいけないものだ。だが今は平時ではない。より一層の必要性が迫られる。平時ではないとき、大衆のパニックを防いだり、一部の人間の保身や立場を守るために、情報は意図的に減らされたり隠されたりする場合がある。正確な把握が最善の行動のみに繋がるわけではないが、最適な行動が正確な把握以外から引き起こされることはない。
普段から意識していなくてもいい。ただ献血や募金のノボリをみたら、「やっていこうかな」と、少ない余裕を回せる先がそこであるよう、認識自体を変えることが大事。義援活動が自己正当化の免罪符になったりするのは本末転倒だ。
土木事業やインフラ整備のために働くだろう企業の報酬は、外貨ではなく円。復興活動のために、外資本が売られ円が買われている今はまだ、円の人気は高いままだ。しかし恐ろしいのは、このさき復興が一段落したころだろう。今回の一件でFukushimaの知名度は世界的なレベルへ跳ね上がった。いくら内需の強い日本といっても、輸出や観光業へのダメージを無視できるとは思えない。そのとき円の価値は、日本の信頼度はどうなってしまうのか。浅学の身で予測は出来ないが、あまり良いものではないだろうという推測はできる。そのときこそ、普段以上に普段の生活を心がけて、消費活動ができるかどうか。それが求められると思うのだ。